昭和四十三年十二月十四日 朝の御理解
御理解第七十一節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」と。
夜夜中、どういうことがないとも限らん。何時どういう事があるやら分からない。そういう時に慌てんですむというか、心配せんですむというか、まあ信心頂いておる者の値打ちをそういう時に発揮できるだけの信心をしておけというのでしょうねえ。
信心も、これは非常に見易くまあ説いてございますけれども、参られる時に参ってしっかり信心の稽古をしておけと。忙しかったり色んな事情があったりする時には参られん。まめな時にここへ参って信心の稽古をしておけとこうおっしゃる。ですから、こういかにも、こう見易う感じられるですけれども、実はそうじゃないと思うですねえ。
お互い信心がどうかあったり、何か難儀を感じたりするから参ってくるのであって、まめな時はいわば信心が疎かになる。あれに恵まれ、これに恵まれしておる時には、信心が、信心の稽古という事等にはあんまり一生懸命ならない。そして日々のそのお参りをして、ここには信心の稽古をしに来るのであるとおっしゃるのですから、本気でひとつ信心の稽古をさせて頂いて、まさかの時には夜夜中どういうような事が起こってきても、そん時驚かんですむだけの信心。ね、それでおかげの、その場でおかげの頂けるだけの信心。これはなかなか難しい事です。だからそれだけの信心の稽古をしとかにゃいかん。
所謂、別に痛い痒いもなからなければ別にこれというて、ね、きがけお願いをしなきゃならない事もない。そういう時に私、本気で信心の稽古をする人、そういう時に信心の稽古の出来る人こそが、私は、夜夜中どういう事があってもおかげを頂いてゆく人だと思うですね。どっか痛い、さあここで日頃の信心にもの言わせるところだという事になってくるんじゃないでしょうか。
ところが毎日こうお参りをして信心の稽古に通うて来ておるようであるけれども、それが稽古が稽古になっていないところに、その所謂それぞれの生活の現場に置いて、ね、いよいよ本番という時に、私は稽古がでけて、稽古のしていない証拠、本当の稽古の出来てない証拠に、本番の時に失敗しておるような事はなかろうか。やはり、そのぉ本番の時に信心がもの言うというかね、日頃の信心にもの言わせるというおかげを頂かなければ、この七十一節は、そういう事を教えておられると思うんですねえ。毎日お参りをしよるけれども、いよいよ本番になると弱い人がある。日頃の信心の教えとか稽古をしておった事は、もうどこへやら。
私は昨日から、昨日ひとつお届けを終ってから、どう言うでしょうかね、体全身がなにかこう、もうまあこわったち言うような感じで、それから頭が痛い。それから、あの吐き気を催す。お許しを頂いてから下がらせて頂きましたが、本当にこう一つの問題、難儀に直面した時に、その問題を、その例えば私の昨日の病気なら病気をですね、いかに有難いものに、いかに味を付けるかというところに日頃の稽古が、私はあると思うんですね。
私はもう大体御神酒さんやら御神米やらは頂かない、(笑)その生き方なんですけれども。昨日ばかりは、兎に角御神米を頂かなければ御神酒さんを頂かなければ、もう言わばもてんごときつかった。不思議ですねえ、あの胃が、胃が痛めた、この身体全身にいろんな事だったんですけれども、胃が痛みよった。御神米を二粒頂いてそれが胃に入っただろうか、もうとたんに止まりましたですねえ、痛みが。それから御神酒を頂かして頂きましたら、なんとはなしに体全身がこう爽快になるですねえ。本当にあの御神酒御神米も日頃頂いとらんから余計効くとかもしらん、ウフフ(笑)というような思い。もうなんちゃ御神米なんちゃ御神酒さんと、あんまり言いよると軽う見るようになる。私の方でもいよいよん時なからなにゃあ頂かん。薬でも何時も頂く、頂きよる人は、もうあんまり効かん。時々飲む人は効くように、まあ効くとか効かんとかいうのじゃないけれどもです、頂き方がだいぶん違うようですねえ。
そして、まあ色々そのお粗末御無礼な事を第一お詫びさせて頂いてから、いろいろ、いよいよ分からせて頂いた事は、昨日は、あの御造、造園の、皆さんあれでございましたが、最近私、あの、肩が凝ったり、手足がこう非常にあのこわっ、こわったりする。この植樹ですね、植木が植えはじめられてからこっち非常にそれが強いんですよ。それで私はやっぱり、あの、まあそんな事言うとおかしいですけれども、皆さんが一生懸命肉体をまあまあ酷使しておられる。だからこわられる。けれども昨日一日御用頂きましたばってん、おかげでこわりもしませんでしたというような人の話を聞くと、聞けば聞く程です、はあお祭り替え頂きよるとじゃなぁと思うんです。
昨日なんかは、その前の日がここの副委員長であります、あの宮崎さんがご承知のように、あっちはもう大体は本当はですねえ、大変ひどい胃の悪い人なんですよねえ。もう大体が、もう手術をしなきゃならない程しにひどい人、ひどい胃の人なんです。それがこちらへ、昨日一昨日御用にみえられてから、半ば頃から胃が痛みだしましてね、もうとっても顔色が悪うなんなさって悪かったんです。お願いをさせて頂いたんですけれども、御神米をあげて御神酒さんとあげました。これはおかげ頂いてから、もうおかげでだいぶよございますと言うて、又一日御用頂かれました。そして十三日はそんな訳で、どうでも自分がおらなければ、自分がというよりも神様が、宮崎さんがおらなければ困ると言われ、思われたのだと、私は思うのです。それでまあ明日の事ずうっと言うてお願いして帰られましたけれども、私はこれは、まあ本当にあの宮崎さんのお祭り替えを頂いたような感じが致しました。まあそれは、私ひとりでは、こうなんだから、私は別にお届け聞いた訳じゃないけれども、家内から聞かせて頂いたら、あの高橋さんとあの久保山のじいちゃまがやっぱいっちょん変わらんごとある。吐き気が来たり胃が痛んだりしなさったげなという話を聞いてですねえ、これはやっぱりこうお裾分けを頂いた。
昨日は高橋さんと繁雄さんは、日田の方じゃなくて、昨日はどうでもあの事務関機の税務署の方へ行かなければならない。どうでも行かなきゃならない。それも大変ややこしい問題で、二人は福岡から久留米の方へ御用頂かれたんです。ですから、その、実際に、あの、あれする、まあ自動車で行ったり来たりするから、まあ、もうそういう言うなら楽な、楽な仕事ちゃ言うわけじゃないですけれども、まあ、その二人に、こうお祭り替えを下さった。言わばそういう事が確かにあるようですね。
これは、まあ例えて言うとですねえ、あの命のつぎ穂といったような事が出来るくらいですから、もうお祭り替えといった事は確かにあるんですよ。人間がね、痛い痒いの時に、その痛い痒いを減らされる訳です、神様が。それを、その他へもってゆかれる訳ですね。誰かれがそれを、まあ言うなら分担するようなもんです。ですからいよいよ誰々が、もう寿命がもう、そのもうないと医者に言われた時なんかは、私の命を何年間継いで助けて下さいといったようなね、昔の先生方は、そういうようなお取次をなさったんですよね。あの善導寺のカワノさんなんかはそうでしたよ。もうカワノサンキッツアンですかね、もう神様にお願いをしておられた本な年限に亡くなられたんですよ。ですから、これは、まあ、そういう例はいくらもあります訳ですけれどもね、そういう事が確かにお出来になる神様。
ですから、まあ兎に角休んどりますと、もう第一今度は普通痛いとか悪いとかというだけじゃなくて、もう大体が寝付けないですから、腰が痛くなるんです。腰の痛い時は、もうかなわんです。ね、もう昨夜なんかは、もうずうっとこうやってから、その夜起きてから休みましたが、腰が痛いですから。やはり、あの寝付けない者が寝るとそんな風にある、ね。そういうような事で、まあ、あの、その私の具合が悪かったという事に対して、まあお祭り替えを頂いておるなあと、まあ昨日丁度三時半からここに出ましてから、四時の御祈念を頂いて、そして六時まで奉仕させて頂いてから下がりよったら、丁度宮崎さんが食堂の所におられました。今日はどうでしたか、はあ、おかげで今日は元気でどうもありまっせんで御用が出来た。それだけを聞いて、私はおかげを頂いておったなあと、こう思わせて頂いたんですけれども。
もう確かにそういうような、あのおかげを下さるですねえ。これなんかは、私、夜夜中何時どういうような事があるやら分からない。あった時に、その事をですね、いかにあの信心でおかげを頂くかと、もしそれが体が悪い時には、さあ御神米をくえ、御神酒をくえで、もうさぁ医者、さぁてと医者に電話を掛けてくれといったような事は言わんですむ位のおかげはお互い頂きたいですねえ。
そん為に御神米やら御神酒さんやらはたしなんで取っとかにゃいかん。何時もかつもの時ではやっぱいかん、ね。さあ医者じゃ薬じゃと言うような事では日頃の信心の稽古をしておるという意味がないでしょう。そして、そこに御神酒御神米の御威力というかねえ、御威徳というか、それを実感させて頂きながら、ね、おかげを頂いてお祭り替えを頂いておるのだぞ、こう思い、その事をお礼申し上げて、その事がなんとはなしに有難い味を付けていく事がでける。
私の控に三代金光様のお書き下げになっておる「信心の稽古」と、あの、いう、色紙に私共、いつも、その、で、おかげを頂くわけですけれども、どういう事があってもどういう問題があってもです、ね、あの、その事を、その事をいかに味を付けるかという事が信心の稽古なんですよ、ね。これはね、一寸した心掛け一寸した手加減ひとつで楽になれる。一寸した味の付け方ひとつで、それが大変美味しいものにもなりゃ塩っ辛いものにもなりゃこれは全然味もないようなものにもなってくる。その味付け加減というものをね、私はひとつ稽古しなければいけない。
神様はこれにどういう味を付けよというておられるであろうかと、先ず日頃の信心の稽古をさせて頂いておる事を、そういう時にひとつ出させてもらい思い出させてもろうて、それにいかに味を付けるか。はあ、これはお祭り替えを頂きよるなあと思うて有難くお礼が申し上げられる。はあ、これはこういうお気付けだなあと気付いてお詫びをする、ね、そのお詫びをしたりお礼を申し上げたりする心の向こうに信心頂いておる者の有難さが、こう頂けれるようなおかげ。
子供がある者や日傭取りは出て来る訳にはゆかぬ。病人があったりすれば捨てておいて参って来る事は出来ぬと。こういうところなんかは、いかにも、こう信心は、まあ本当に暇な時に健康な時にするもんだと、ゆう風に感じられます。まあ確かにそうですけれども、本当に暇な時健康な時にお互いが信心がなかなか出来ません。夜夜中どういう事が起こってきても、どっこいとそれを信心で受けられるだけの信心というのは、やはり本気で修行させてもらうと、ね。本気で私はあれこれと願う事がないような時に信心の稽古をしておかなければいけない。その稽古がなかなか、あの、しにくい。どうしても自分の身に掛かってくるというか、実感というものは、例えば今朝それを一寸思った。
ここへ出てから御祈念をする時に思ったんですけれども、もう今年は本当にこうして暖かい毎日が続いておりますが、先日から久富さん、話しておられたのに、もう野菜が伸びすぎて伸びすぎてね、もう仕様がない。もうですから、もう市場へ行っても何処にも何もかにも、例えばやましろとかほうれん草とか、もうこんなに伸びてですね。それも只のように安い。それを聞かせて頂いてからですねえ、その本当こちらは、もうこげん暖かいけん結構くらい思いよりゃ、実際にならば久富さんの身になってみると、この暖かいという事はですね、あれはもう大変こりゃ困った問題なんですねえ。麦なんかも伸び、伸び放題。伸びる、これは本当に、あの、取り、収穫の時の事が思いやられる。それがね、私共にはひとっつも、その百姓した事がないもんだから実感として湧いてこない。信心ばっかりは、その実感が伴わなければ稽古になりません。
今日初めて、私は天地に対して、その天地に対する、その何と言うかね、まあ何ですかねえ、「暖冬や火葬場までの浜づたい」といったようなですね、これは本当にこういうように天地が変動されて寒いはずの時にこんなに暖かいという事は何か天地は私共に分かれと、こう大きな御気付を下さっておるようであるけれども、その御気付けをこちらが関心が無かったり致しますと、それを実感として、あの気が、御気付けを頂きよるけれども、御気付けとして分からない。これは農家をなさる方達なんかの場合なんかはお取次を頂いてですねえ、天気の事なんかは仕様がないと言わずに、本当に寒い時に寒いおかげが頂けるような、でないと、お野菜一本がそのような結果になってしまうから真剣に、私はその事に取り組んで、あのお願いをなさったり、又はその事によっての信心というものがなされたらですねえ、まちっとどうかおかげが頂けるのじゃないかと、こう思うのです。
もう天地の事じゃから仕様がないといったような事にせずにですねえ、例えばなら久富さん辺りは、その事を本気で日々お取次を願われなきゃいけない。でないと、その不平不足ぐらいのものしかて出らんから、困った事じゃある、こげん伸びるなら値が安うなってしもうてからと言うような事しか出てこない。ですから、そういう自分達の利害にも伴う事であり、しますのですから、そこんところをも少し身近にですねえ、感じておられるのですから、それを信心で取り組まれたら、例えば、んなら、伸びない物が、あぁ伸びる物が伸びないですむようなおかげがですねえ、頂きゃせんだろうかと、ね。又天候の面でも一人でもその事に気が付いて天地に対する、て、詫びるとか願うとかいう人達があっていいのじゃないだろうか、ね。
甘木の御信者の中には、干天続きの所に、甘木の先生にその事をお取次願われた。ところが雨は上からばっかりは降らんち言われた。ね、本当にその人のうちの田だけは、もう何とはなしに湿り気があって大変豊作のおかげを受けられたという話を聞いた事があるけれども、その事に取り組んで本気でお取次を願って、そういうような事を信心の稽古の対象にされたら農家の方達はとても天地と、この繋がりという事についての微妙な働きを実感したり体験したりする事が出来るんじゃなかろうかという風に思うのです、ね。
私、その事をその事を信心の、金銭の事とか人間関係だけの事にせずに、ね、そういうような事の上にも、私共は信心の稽古の対象としておかげを受けてゆかなければいけない。
まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。まめな時しっかり信心の稽古をしておけ。参ってお願いをしたというだけではなくて、やはりここでは皆さんが、それが段々出来ておられますねえ。
えぇ朝、あの御祈念後の御理解など、後からのテープで、それをよく聞いたりそれを書いたりしてから皆さん帰られます。中には、それを全然あの、聞こうとしない、ね、勿論控えようともしない。ただ参ってきよるというだけであってとゆう人は、ここから見とってから惜しい気が致します。ね、ここにはやっぱり信心の稽古にくる所。
最近皆さんが、もうそれこそ学校へ通うように鞄を下げてから、ここに、あの見えられる。お参りされる。そしてそれを写し取られて、まあ稽古の芯になさる訳ですけれども、まあここの場合は、本当にそういう意味で、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけとおっしゃる、信心の稽古がでけておるように思う。けどもなおさら一段その自分達の稽古という事に対して検討を加えて、ね、その事を日々の生活の上に、ね、その問題その事柄を通して信心の稽古をさせて頂くところから、例えば段々それに対するところの味付けが上手になる。その事が段々有難いものになってくる。この味付けの上手になる、私は稽古を本気でしなければいけない。そういう稽古がなされてこそ、初めて私は、夜夜中何時どういう事があっても驚かんですむというか、なら、例えば、さあ夜夜中、はあ何かあった時一寸電話、お医者さんに電話掛けてくれてんなんてん言う事を一番口で言わんですむようなおかげがぴしゃっと、その御神米なら御神米でおかげの頂けれる、御神酒さんでおかげの頂けれるおかげが受けられると、こう思うです、ね。
稽古しとるようであって本当に、の、稽古になっていないような場合もあろうと思うのです。まあ、この七十一節を大体に、こう頂きますと、信心はいわば暇な時に、まあまめな時にと、しっかり信心の稽古をしておけと、こうおっしゃる事ですから見易いようですけれども、人間が、そこが、ね、まめな時やら暇な時やらはです、むしろ信心が出来ない。よし、でけても稽古にならない。
先日、或る方が熱心に参ってきて、大変なおかげを受けなければならないと言うので、商売の事で夫婦で一生懸命参ってきよんなさった。ところが最近ピタッと信心を止めてしまいなさった。この頃御造営の、あの、この、御造園の植樹の、あの通知を受けて夕方、その献金をしに見えられた、ご主人が。
丁度、夕方私が座っていない時に座ってたもんですから、もう非常にそれが有難かったらしです。「もう先生、本当に、あの、御無礼をしとりますが、まあ、あの実を言うとね、そこのこうら会館ですね、こうら会館のご主人なんです。もう兎に角、もう止めさせちくれ、止め、止めんと、どうこうでけんというのを、もう私がやかましく言うてから、持ち続けて、こうしておかげ頂かんならん。もう毎日毎日が、もうそれこそ行き戻りここに寄ってからお願いしておられました。ところがですね、おかげで軌道に乗り出した。これならやってゆけるとゆう事になってきた。そしたらシンデンブショ?の手紙でしょ。私もそころのころへ、もう何ヵ月ぶりに、そのここからのお通知を頂いたもんですから、あのどういう事だったでしょうか。あの、まあ献金を持って見えた訳なんです。それで私がここにおったという事が兎に角、まあ嬉しかったらしいです。そして言われる事がです、もう本当にあの時分に随分お話を頂きよったけれども、そのお話があん時は苦しさ紛れでしたから全然残っておりません。ですから、もうこれからどうやらこうして軌道にものりましたから、これから夫婦の者が、こりゃこれからほんな信心いっちょせにゃんばいち言うて、言い暮らしておるところへお通知を受けたと、こう言うのである。これから先生、本当は信心をさせて頂きますから、これからは先生の仰る事がちった分かるじゃろうと思いますから、どうぞ宜しくお願いしますち言うて帰られた。そうですよと言うて、ですから、そのもうそう思いよるけれども、なら毎日ここまでを通りよんなさる。毎日吉井から通いよんなさるですから、それでもなかなか、その、ほらどうもないと暇な時やらどうもない時にはなかなか信心の稽古が出来ない。
ね、それであの苦しい時なら苦しい時の神頼みで、まあ朝晩お参りをさせてもらいよった者がです、だからその時分の事はいちょん稽古になっとらんという事になるです。ですから本当に、今は少し気付きよんなさる。ね、これは今こうやって軌道に乗って、おかげでやって、先生が言いよんなさったごたる風にはずしとかんでよかったというところまでおかげ頂いとるのじゃから、これからは今度はほんな信心ばせにゃならんち言うてから、家内と話しよりますと、話しよりますと言うただけで実際はなかなか出来ないという事が分かる。だからここは見易いようであるけれども、ここんところが実は難しい。まめな時、ね、ここへ参って信心の稽古をしておけということは一番難しい事なんです、ね。
ですから、まあ皆さんの場合はそこんところがですねえ、なら皆さんが暇だとも思われないし、難儀を持ってないという訳でもない。それぞれ難儀をもっておる。もうそういう難儀をもっていきながら、その難儀を難儀としてですねえ、お取次を頂いて、ね、その反面にこうやって信心の稽古をしておられる訳ですから、まあ有難いことですけれどもねえ。ここんところまでに信心が軌道に乗るということは、実を言うたら非常にやはり時間も掛かる事ですし、そこまで神様がお育て下さるためには、やっぱ様々なあの手この手を使うてここまでお引き立てを頂いておる訳でございますから、ねえ、ここんところをひとつよく悟らせてもろうて、ね、どれ程かお手間かけし菊の花であって、ここまでのところをお育て頂いておるのであるから、もういっちょもう本気で、ね、信心の稽古をさして頂いて、それが、ならぶっつけ本番というような時にもです、いつ夜夜中どういう事があるような事があってもです、その時にその信心の実(じつ)をですかねえ、上げていくと言うか、日頃の信心をその時にもの言わせるというだけのおかげを頂いてゆきたいと、こう思います。
これはなかなか、これだけ読むとなんかざあぁと読むと金光様の信心ちゃみやすかたい。暇な時参りゃよかばいのち言うごたる感じですけれども、実はそういう暇ん時やらまめな時やらは信心の稽古は出来ない。難儀を抱えておる時は、もう難儀な事でいっぱいでいちょん稽古にはなっとらん。そういう事ではなしに、ね、難儀を抱えておりながらもです、その事を通して本気で信心の稽古をさして頂いて、いよいよまめになり、いよいよ暇になり、いよいよ余裕ゆとりが出来た時でも、いよいよ本当にここ迄もようよう神様がこの信心をお育て下さったんだなあという有難さで信心の稽古が出来るようなね、おかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。